_
● 画像はhttp://eco.nikkeibp.co.jp/article/special/20090303/100913/より参照
「どんな社会がやってくるのか」
そのことについていろいろな人が述べている。
この人たちの頭のなかには、もう
「3・11以前の豊かさには戻れない」
という共通認識があるようである。
実際そうであろう。
いくら経済学者が理屈をこねても、バラ色の復興プランを練ったところで物理的にできないものはできないということであろう。
『
ここへんJAPAN 2011年04月21日09:00
http://koko-hen.jp/archives/3078663.html
なぜフクシマ後、日本人は半自給自足生活へむかうのか
■復興特需はあるのか
いまの原発は残るとしてもさすがにこのさき新設はないだろう。
電力が足りなくなる→供給(生産)が減る→経済規模が小さくなる→雇用が減る→失業者が増える
通常の不況なら、公共投資への増額などで経済規模を大きくするという政策で経済を活性化される方法が取られる。
リーマンショックなら、エコポイント、エコカー減税など。
しかし今回は、電力不足という制約があるので、復興支援金が経済に落とされても、供給が足かせになり、経済規模の成長に限界がある。
だが生産(供給)はもっと柔軟な形態を取るかも知れない。
たとえば工場の半分が夜間操業にシフトするとか、西日本へシフトするとか。
働き者の日本人からすれはこれぐらいの柔軟さは問題ではない。
復興特需によって短期には雇用は増加し、景気は良くなるかも知れない。
■このさき原発の新設ないでやっていけるか
問題は中長期だ。
1990年頃の電力ピークが5000万kw、昨年が6000kwということは、500kw/10年で増えている。
1990年から生活は激変している。
エアコンの普及、インターネットの普及、液晶テレビなど。
そして今後も、オール家電、電気自動車、スマートフォンなどなど。
次々と製品が納入されて、電気量は増えていく。
だから問題は脱原発ではなくこのさき新設しないでやっていけるかだ。
これは単に便利になると言うことではない。
このように新たに消費を喚起しないと経済は成長せずに雇用が確保されない。
たとえば格差社会で低所得と言われている層も、充実した家電製品、情報機器がそろっているそして高い食物が買えないといってもいまは安い食品も十分おいしい。
こういう生活のベースこそを「空気のような」安くて安定した電力供給が支えている。
不況といっしょで影響を受けるのは低所得者層だ。
■自由主義経済の繊細さ
自由主義とは経済を自由放任することではなく、国策だ。
自由主義はとても繊細であり、誰かが維持管理しなければ生まれない。
経済はたしかに管理不可能な生きものであるが、また人の経済活動の反映でもある。
人は経済活動を行うとき、経済学指標を参考に行う。
人が自由主義経済を全面化させたのは十八世紀以降でしかない。
それ以前は農業中心で絶えず自然の影響が大きかったからだ。
すぐに自然災害が起こる社会では自由主義経済は成り立たない。
自由主義経済とは、貨幣交換によって成立する。
労働者は労働を売って、現金を手に入れて、現金をもとに衣食住から余暇までまかなう。
しかし自然災害が頻繁に起これば、生活必需品が安定して供給されるか怪しくなる。
今回の震災で、実際に被災していない首都圏でも買いだめパニックで物がなくなった。
すなわち頻繁に災害が起こる場合には、金ではなく、現物が重要になる。
逆に言えば、自由主義経済とは、なんでもお金で買えるように安定して商品が供給されるとても高度な状態によってしか成立しない繊細な経済ということだ。
■自由主義経済より根深い経済活動
では自由主義経済より根深い経済活動とはなにか。
自給自足と略奪と贈与だ。
自由主義経済以前には自給自足と略奪と贈与が経済の中心だ。
自給自足と略奪と贈与を中心に経済活動を行う国を自由主義経済へ転換させることはものすごく大変なことだ。
法制度、治安維持、国民の教育、そして産業の育成。
かなり強い政府のリーダーシップがないとむずかしい。
たとえば後進国が一見、自由主義経済に組み込まれているように見えても、資源を目当てに先進国が一部の権力者と取引しているだけだったりする。
国内では相変わらず、自給自足と略奪と贈与の経済であり、人々が貧しいままということは、後進国の一般的な形だ。
たとえば日本にしても、どこまで自由主義経済といえるのか。
もともと日本は明治時代から自由主義経済を取り入れたときも、政府や財閥など主導であった。
その傾向はいまも変わらない。
大災害の時に、ユートピアが立ち上がると言われる。
(「なぜ災害時に「ユートピア」が立ち上がるのか」http://d.hatena.ne.jp /pikarrr/20110209#p1)ここでいうユートピアとは、自由主義=自由競争ではなく、贈与を中心とした相互扶助の経済のことだ。
今回、日本人が災害時に略奪が起こらないことを外国人が称賛しているが、通常、大災害時に略奪が横行するということだ。
大災害という治安秩序が破れると、贈与と略奪が表れるのは、それらが自由競争よりも根深いからだ。
■半農の自給自足生活
今回の震災によって長期的に電力が不足し続けるなら、経済を自由主義=自由競争のみに頼る必要はない。
略奪はダメだが、自給自足と贈与へ一部シフトしてもいいのではないか。
田舎の安い土地に住み、食料は自分でつくる半農の自給自足生活をすれば、電力消費量はぐっと減る。
また最低限の衣食住には困らない。
一部を自由主義経済で現金収入を得て、医療や家電製品など、お金でしか買えないものを買う。
それとともに重要なのが、自給自足生活は必ず贈与による助け合いの相互扶助が必要である。
脱自由競争した人々が集まれば、自ずと立ち上がるだろう。
電力不足も災害と考えれば、半農の自給自足生活で乗り切るというのは、適切だと言える。
現金より、生きるために現物と助けあいの贈与を重視する。
ただ略奪などの治安維持、またいきなり半農の自給自足生活に適応出来ないから、政府におる補助は重要であることはいうまでもない。
今回の震災でも、日本人が略奪をしないとか、秩序をもって贈与関係を営んでいるというのは、一つには日本は自然災害が多い国だから、古くからの慣習として刻まれているんだろう。
「日本人」という運命共同体は島国という閉鎖領域によって培われたとともに、昔からともに自然災害と闘いってきた歴史によってつくられてきた。
■自然エネルギーとスローライフ
自然エネルギーの問題は、
1..安定性が低いこと。
太陽電池は天気が悪いと電気が減る、
水力発電は渇水が続くと減る。
2..コストが高いこと。
ドイツなど欧州で太陽電池が普及しているのは、補助金が出ているからだ。
発電所の方が安いから日本では広まらない。
電力は単に必要量の問題だけではない。
いまの自由主義経済の発展を支えるためには、「空気のように」安定して安い電力供給が必要であること。
それを満たすのがいまは火力と原子力だけだ。
このために自然エネルギーはあくまで補助的な役割になる。
しかし生活が半農の自給自足のようなスローライフになれば、必ずしも「空気のような」安定した電力供給は必要なくなる。
自然の「気まぐれな」変化に、柔軟に対応することが可能だろう。
逆に言えば、自然エネルギーを大胆に取り入れる生活とは、ある程度の脱自由主義経済が求められる。
■魔法のような自由主義経済から抜けて
お金さえあれば魔法のように一瞬で欲求が満たされる自由主義経済から抜けられるか。
成熟した自由主義経済ではそれは富裕層の話しではなく、低所得者においても商品に囲まれ享受している。
半農の自給自足とは、多くの部分を自らの労力でまかなうことであり、自然環境の「気まぐれに」我慢強く付き合う生活である。
脱原発とは江戸時代へ戻ることだという人がいるが、ナンセンスである。
電力が不足するだけで、豊かな生活環境がなくなるわけではない。
農業にしても生産性がまったく違うし、自由主義経済による豊かさが基礎としてあるわけだから、再び、「マルサスの罠」にもどることはないだろう。
自由主義経済の成熟、高齢化、環境問題、そして今回のエネルギー供給の限界・・・歴史の変曲点に来ている。変化はすぐには起こらないだろう。
生活環境や慣習は簡単に変わらないし、多くの痛みをともなう。
その中で新たな日本人が表れてくる。
』
『
BLOGOSチャンネル 2011年04月15日15時13分
http://news.livedoor.com/article/detail/5493086/?p=1
松永英明
「電気文明」と「高層緑化型都市計画」が見直される時代の始まり
少々スパンの長い話をしたい。
東日本大震災は「電気文明」と「高層&緑化を主眼とした都市計画」を見直す時代のきっかけになると考えている。
つまり、20世紀文明の再検討だ。
ただし、誤解してほしくないが、私が「電気文明の見直し」というとき、単純な「昔に戻れ」とか「電気を捨てろ」とか「自然との共生が云々」ということを言いたいのではない。
たとえば「さすがにオール電化だと停電時に身動き取れないから代替手段が必要だよね」ということから始まって、電気でなくてもよいことも電気に頼ろうとしている今の文明を問い直すことになるのではないか、ということだ。
また、これより規模は小さいものの、「建物を高層化して空いたスペースを緑化することで防災にもなる」という建築・都市計画思想についても、災害時の根本的な脆弱性が露呈した。
これは建物自体の耐震性がいくら大きくなろうとも、「高さ」自体が脆弱性となるという問題点である。
もちろん大震災でいろいろなものが見直されることになるとは思うが、現時点でわたしが特に思うことをまとめておきたい。
■電気文明一辺倒(オール電化)の危険性
首都圏では地震・津波そのものの被害はさほどなかったものの、その後の計画停電の混乱にもみられるとおり、電力不足が社会に大きな混乱をもたらした。
その状況を踏まえて考えれば、今回の大震災は、現代社会がいかに「電気文明」であるかを露呈したともいえる。
発電機能が停止したら日本も停止する。
電線コードがついていて、抜けたら活動停止(もしくは暴走)に至るエヴァンゲリオンのように、コード付きの社会だ。
わたしたちは20世紀以来、社会を電気化してきた。1990年代ごろからは情報の電子化もそれに伴って加速した。
銀座でガス灯がアーク灯になったのは明治 15年だが、日本全体が電化されていったのは20世紀も後半のことである。
高度成長期を境に炊飯も冷蔵も洗濯も風呂も電化され、現在ではIH調理器など「オール電化」が持てはやされてきた。
自動車も電気自動車による明るい未来が想定されてきた。
2010年は「電子書籍元年」と言われ、紙の本が将来的に激減する未来図も描かれてきた。
ところが、この震災を機に、わたしたちは「あって当たり前」だと思っていた電力が実は「当たり前ではなかった」ということにようやく気づいた。
オール電化を採用したばかりだった人が震災後大いに悔やんでいる人の話も聞いた。
紙の本も、工場が被災したり、電力や材料調達の問題で製造が困難になっているが、停電したり電波が届かなくなった地域ではそもそも電子書籍も閲覧不可能である。
もちろん、電気を捨てるわけにはいかない。
昭和に戻れとか自然との共生とかいう人たちもいるが、実際のところそこまで戻ることは現代人には無理だ。
だが、「電気でなくてもいいもの」も全部電化しようとすることは、脆弱性を生み出すのではないか。
「電気でしかできない」とういのは、電気がなければアウトである。
「電気でもできるが、他の方法も用意されている」という「冗長性」あるいは代替手段が必要だということに、今改めて気づいたように思う。
繰り返すが、電気をやめろとは一言も言ってない。
電気に依存しすぎ、電気以外で済むものも電気になっていることへの問い直しが絶対必要だ、ということだ。
オール電化の時代は3・11をきっかけに「終わりの始まり」へと一歩踏み込んだのだ。
■電力不足という状況の中で
今までの生活をそのまま続けていれば電力が絶対的に足りない。
それは計画停電の中で絶対的な条件として突きつけられた。
では、どう対応することができるのか。それはもちろんいろいろな考え方がある。
□電力会社による供給電力量を増やす
* 原発を維持する(現状では脱原発は避けられない流れ)
* 原発以外の従来の方法で発電可能な電力を増やす(火力・水力増強)
* 代替的発電方法へシフトする(太陽光、風力、地熱、潮力など)
* スマートグリッド構想
* マグネシウム発電構想(マグネシウム蒸気タービン)
□ 企業・家庭で電力会社の供給によらない発電を増やす
* 企業における自家発電システムの強化
* 太陽光やガスによるマイホーム発電(ただし一般的に節電用なので、現状では停電時の代替にはならない)
□ 必要とする電力量の削減
* 節電
* 蓄電によって電力消費のピークを下げる
* 電力消費の少ないエコ家電の開発
* 電力である必要のないものを電力以外へ転換する
つまり、「電力供給を何らかの方法でシフトする」か、「必要電力を減らす」か、あるいはその両方を実施しなければ「夏には大停電」という状況に追い込まれているわけである。
その中で、火力・水力にしろ、風力や地熱などにしろ、発電所や発電施設を新たに作るには時間もかかる。
犬吠埼沖の海上50キロで漁業や生態系を無視して風力発電所施設を作れば、理論的には東京電力の電力をすべてまかなえるという論文もあるが、同論文では、現実的な数値としてはやはり小さくなることが示されている。
CO2を考えれば火力も難しいし、「放射線よりまし」ということでダムに戻るというのも問題である。
個々のユーザーが発電するにも現状では限界が大きい。
マグネシウム発電が現実化すれば、海水から燃料が生み出せるために非常に期待が持てるというが、それ以上に電力需要量が増えれば終わりである。
とすれば、やはり電力量を削減すること、「脱電力」の動きがどうしても必要が出てくる。
もちろんこれは「廃電」ではない。
いくらロハスだと言ってもいきなり縄文時代の生活に戻るわけにはいかない(縄文=ロハスという思考についてわたしは根本的に疑問を持っているが、それは別稿にて)。
あるいは昭和三十年代を理想化しすぎるのもおかしい。
しかし、2010年の暮らし方の延長で今後も生きていけるわけではないというのは確かなことである。
■具体的な「脱電力」
たとえば自動車である。
わたしは震災前は単純に電気自動車化すればいいんじゃないのと思っていた。
震災によって、電気そのものの脆弱性を見て、完全に電気自動車にしてしまうのであれば脆弱であると感じた
。しかし、ガソリンが配給されなくて車が動かなかったのも事実。
また、電力消費量の少ない間に充電して昼間に走るなら充電池としてとらえることもでき、その意味では節電に貢献できる要素もあると思われる。
とすれば、自動車に関しては電気自動車一辺倒ではなく、電力とガソリンのハイブリッドの方向性で進めるのが望ましく、一方で自転車や公共交通機関メインにシフトすることも大いに検討すべきだろう。
風呂や調理をなぜ電力で行なわなければならないのか。
暖房も電気でなければならない理由はない。
オール電化はもはや選択肢としてはありえないだろう。
たとえ部分部分はエコに見えても、総合すると必要な電力が増えているという皮肉な存在でもある。
もっとも、停電になるとガスもほとんど使えなくなるものが多いので、今後は「停電時の代替システム」が極めて重要になってくると思われる。
そして何より今回の状況は、わたしたちの文明がいかに「電力」に依存しているかということを改めて見つめ直すよい契機になるのではないだろうか。
■高層&緑化を主眼とした都市計画の脆弱性
20 世紀の建築に革命をもたらしたル・コルビュジエの思想の影響を受けて、日本でも森ビルをはじめとして
「建物を高層化することで地面に緑地を生み出す。これが防災上も望ましい理想的な建築・都市計画だ」
という思想が根強く存在している。
これは「土地の有効活用」というマジックワードや「コンパクトシティ」といった構想とセットになり、また都市再開発における事業費捻出の事情ともあいまって、
「防災を考えて高層ビル化する再開発をする」
というのがどの都市でも無条件に採用されている。
そして、現在は耐震性も高まっており、建築中のあのスカイツリーでさえ何の被害も受けていない(東京タワーはてっぺんのアンテナが曲がったが)。
しかし、今回の大震災で高層・超高層住宅の意外な脆弱性が見つかった。
建物は倒れないかもしれない。
しかし、「高い」ということが理由で帰宅難民が発生したのだ。
わたしの知っているある社長は都内の高層住宅に住んでおり、およそ40階のところに自宅を購入したところだった。
ところが大震災の日に停電でエレベーターが動かず、建物の下までは帰り着いたものの自宅まで昇れなくなってしまったのだ。
40階まで階段を歩くことを断念して、その日は外で泊まったという。
別の人は渋谷で2時間以上エレベーターに閉じ込められたという。
その間携帯もつながらず、2時間後に脱出してようやく震災があったことを知ったという。
高層建築においては、「高さ」そのものが脆弱性と考えられるのではないだろうか。
液状化などのことも考えれば、わたしはたとえば豊洲あたりの高層住宅など決して住みたくないと思う。
今後、日本は数十年以内に確実に少子高齢化で人口半減時代を迎える。
むしろ土地は余る時代がやってくる。
そのときに老人となっている我々自身のことを考えても、高層よりも低層の方がずっと適しているということになるだろう。
コンパクトシティ構想においても、中心街に住居を集めるとしても高層化の必要性はなくなっていく。
防災対策としても、個々の建物の耐震・防火性能を高めてあれば、必ずしも道を広くしていく必要もない。
ル・コルビュジエ以来の20世紀型の高層化崇拝建築思想は、この大震災をきっかけに見直されることになろう。
■見直される20世紀
今回の大震災は、「電力」という20世紀型文明の根幹にかかわるものの脆弱性が浮き彫りになり、それによって我々がいかに電気に依存しすぎていたかということを明らかにした。
まずはその事実を見つめることである。
そして、被災地が復興していく中で、被災地以外においても新たな方向性を見つけていくよう迫られているのである。
この文章自体、PCで書き、ネットで公開している。
すなわち、電気文明の恩恵を受けている。
そのことを充分に認識した上で、脱電力(不要な電化の排除による冗長性の確保)に向かって行きたい。
』
== 東日本大震災 ==
_